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ロシア正教会 宣教の沿革 ニコライとの出会い 大館最初の  伝道者

【ロシア正教会
 今日、キリスト教世界は大きく分けて三つの会派に分かれる。

東方正教会(オーソドックス)、西方教会(ローマ・カトリック)、及び宗教改革の結果生じたプロテスタント教会の三つである。また東方正教会と西方教会は「旧教」、プロテスタント教会は「新教」と二つに分類することもある。 そして、文化的には西方教会(ローマ・カトリック)はラテン文化圏の教会であり、東方正教会はギリシャ文化圏で育まれた教会ともいえる。
 「東方正教会」が「ギリシャ正教会」と呼ばれているのはこのようにギリシャ語文化圏に伝道された教会という意味であり、決して「ギリシャの国の教会」という意味ではない。 もちろんギリシャではギリシャ正教が国教となっているが。
それまで文字を使っていなかったスラブ人に対し、ギリシャ人の聖キュロスと聖メトディオスは書き言葉としてのスラブ文字を、ギリシャ文字を基に創案してその教化をはかった。こうして正教会はビザンチン帝国についで、ロシアが伝道活動の中心になり、スラブ人に続き多くのモンゴル人や北方のフィン族がキリスト教に改宗していった。
やがてロシアに土着した正教会はロシアの国教となり、「ロシア正教」という「ロシア化されたギリシャ正教」となるのである。 日本正教会はロシアからニコライによって伝道された教会である。教会内の伝統や儀礼、聖職者の服装等はビザンツの伝統を基にロシア化されたものが受け継がれて日本に伝えられた。


【宣教の沿革】
函館領事館: (日本にロシア正教が伝えられたのはゴシケビッチが函館赴任した時に始まる。)

  ペリーの浦賀来航からわずか1ヶ月半後の1853年8月22日に、ロシアの使節、海軍中将エフィーミー・ワシーリエヴィチ・プゥチャーチンはパラーダ号をはじめとする四隻のロシア艦隊を率いて長崎へやってきた。
 彼はペリーとは違って威嚇の態度はなかったが、プゥチャーチン一行もやはり日本の門戸を開き日本との通交を求める北からの「黒船」であった。1855年2月、日本はロシアとの間に仮条約ともいうべき日露和親条約を下田で結んだ。1858年8月には、さらに本条約ともいうべき日露修好通商条約が江戸で調印された。ロシアは函館に領事館を設置し、初代領事としてゴシケビッチが幕末の安政5年(1858年10月24日)に着任した。 (『宣教師ニコライと明治日本』より)


ニコライ来日:

 翌年にロシア領事館付属施設として「救主復活聖堂」《現函館ハリストス正教会》が建設され、神学生であったニコライは、この領事館付属聖堂の司祭募集の広告を神学校で見つけ、日本伝道を決意し、文久元年(1861)三代目領事館付司祭として函館に赴任する。
 幕末の日本に単身で渡来したニコライは、さまざまな迫害に臆することなく、困難をのりこえ、不屈の闘志と神への献身と日本人への愛をもって日本人の心に、新しい信仰の火をともそうと宣教をめざしていくのであるが、当初は切支丹禁制下であったため、布教伝道の自由はある筈もなく、ニコライは、日本伝道の志を秘めながら、日本語の研究を始めることとした。 まるで体当たりするように日本語の習得に励み、日本の歴史を学び、日本人との接触を試み、徐々に宣教の備えをととのえていったのである。「日本に着くと私はあらん限りの力を注いでこの国の言葉を学びにかかりました」とニコライは後に語っている。  


【ニコライとの出会い】
木村謙斎との出会い:

木村謙斎は文化11年(1814)に沼館(大館市沼館)の豪農、田山藤四郎の長男として生まれ、謙斎は幼少の頃から学問に優れていたが、田山家の相続は弟の徳平に譲り、秋田(久保田)の明徳館に学んだ。その頃大館向町に住んでいた道隣という医者が久保田で謙斎を見つけて大館に連れ帰り、木村家の婿に迎え入れた。
 謙斎の生きた時代の日本は内憂外患激しさを増していった時であった。また、ロシア船の松前、津軽沖の出没は、東北諸藩の緊張を増し、安政4年には大館にも蝦夷地警備のため出兵が命じられ、謙斎は派兵の軍医とし渡島し、函館郊外の「増毛」詰として勤務にあたった。やがてこの勤務が解かれた後、再び渡島して函館で医業を開き、その傍ら私塾を設けて北海道警備の武士に漢籍を講じた。 ニコライは謙斎の塾に毎日のように、通訳を伴って、日本国史や儒教、神道等、日本についての基礎知識を学んだ。
 元治元年(1864)春頃、木村謙斎は函館を引き揚げて大館に帰ることになるが、ニコライは、この頃来日四年目を迎え、謙斎の塾での学問が益々面白くなっていた時だけに、落胆は大きかった。この時ニコライはガラスのコップ一対と銀のフォークを勉学の感謝の印として贈っている。
 現在このコップは大館市部垂町の木村家に家宝として桐箱に入れられ大切に保存されている。箱の横に謙斎は、「西洋茶碗並西洋箸入」と大書し、蓋の裏には「元治元年甲子四月於箱館魯西亜旅館 魯西亜僧ニコライ与木村光永」と記している。一方、銀のフォークは謙斎の六男、山城常助筋にあると言われているが、未確認である。この箱書には、謙斎(木村光永)のニコライへの親愛と函館の思い出がにじみ出ているように感じられた。
 この年の5月、ニコライの前に安中藩士の新島七五三太(しめた)という一人の青年が姿をあらわした。ニコライは日本語と英語の交換教授約束で彼を領事館に寄宿させ、古事記の講読が始まる。 この新島青年こそ、のちに日本組合キリスト教会を創立し、同志社を興す新島襄である。翌年6月14日、外国船で日本脱出をはかった新島は、『函館紀行』の中でニコライの人格のすばらしさを記述している。ニコライはこの時、大きな夢を持ってアメリカへ羽ばたいていく新島の為に領事館内で写真を撮らせている


★木村謙斎のその後・・・


 元治元年(1864)木村謙斎は大館へ帰ってから、ニコライの宣教の側面援助となる働きをしていくのであった。
儒学者でもあった木村謙斎はニコライと親密な関係を持っていたがロシア正教の信者になるには至らなかった。しかし、正教には関心を持っていたらしい。 ニコライが明治26年(1893)5月に奥羽地方巡回の旅をして大館に立ち寄った際、古くからの信徒モイセイ塩谷の口から思いがけず謙斎の名を聞いた事の驚きをニコライは日記(5月22日付)に綴っている。明治16年(1883)2月21日、69歳で没した。


★そしてもう一人の秋田県人: 津谷市太郎

 さて、函館のニコライと秋田県人の出会いの中で、もう一人特記すべき人物がいる。ニコライが伝染病にかかったとき、不眠不休の看護をした人が鷹巣町坊沢生まれの津谷市太郎である。異郷の地で病に倒れたニコライには津谷の献身的な看病がどれほど嬉しかったことであろうか。明治35年頃70余歳で郷里鷹巣に帰った津谷に対して、ニコライは終生月額2圓ずつ贈ることを忘れなかった。 市太郎は明治43年5月13日82歳にて永眠。彼が洗礼を受けていたかは不明であるがこの頃鷹ノ巣には一見の信者があると記録されている。坊沢の曹洞宗永安寺に墓があり、戒名「開庵院哲仙了翁居士」とある。 


【大館地方最初の伝道者】 ・・・アレキセイ山中・・・
★ロシア正教伝道始まる:

大館地方に正教会の伝道者として最初に入ったのは函館復活教会のアレキセイ山中友伯(天保12年・1841年5月12日生 ~ 大正6年(1917年2月20日没)である。
十二所にアレキセイ山中友伯がやって来た時、正教の教えを最初に受け入れたのは赤平操である。赤平は嘉永4年生まれで家は代々十二所侯に仕えていた。縁故あって十二所から隣村の曲田に移り住んでいた赤平操は、曲田の畠山市之助の親類の要望にこたえ、村の事務をとり、子供達に学問を教えていた。 後の曲田福音聖堂の建立者である畠山市之助は弘化3年2月19日曲田に生まれる。
  耶蘇教伝道者の来村を聞いたとき、畠山は赤平にその是非を判ずることを願う。赤平は山中友伯の講議所に通い、論議を交わし、やがてその教えを認めるようになる。赤平は市之助に正教を信ずるべきだと勧めるが、市之助は代々の熱心な仏教徒であったためなかなか決心がつかずにいた。そのうち、赤平らは「パエル」の名で洗礼を受け、市之助に正教を勧めていった。
 伝教者アレキセイ山中友伯やパエル赤平操の尽力により、明治12年4月23日、畠山市之助はこの地方の管轄司祭である函館復活教会のロシア人修道司祭アナトリイ・チハイにより、毛馬内の目時家(現小坂町荒川)で「イォアン」の名で領洗している。


心を開く人達:

 大館ではこの頃、苦難にあいながらも、正教に心を開く人達が増え、函館へ旅立つ人の記録が残っている。
 『北秋田郡大館士族泉清、鹽谷某の両名は耶蘇教受業のため去月中函館復活教会へ出掛けるよし』(秋田遐邇新聞 明治12年4月6日 第802号)
 泉清はこの後、明治15年函館で写真館を開業、漁業と写真業を営んでいる泉とその家族を「正教会の習慣を守り、キリスト教の中に育まれた家族」であると賞賛している。 一方鹽谷もまた正教の勉学を収め、故郷大館会の中心的人物として活躍していく。
 さて、イォアン畠山市之助はその後、十ニ所町町会議員として町政に尽くし、また、部落の生活改善の為の一策として、葬式、供養等、仏教に比較して費用がかからないキリスト教を部落民に勧め、村民のほとんどを信者に導いていった。
 明治25年には生神女福音会堂を建立、26年正教会伝教補助、29年には自給伝教者となり、曲田周辺の伝道にあたる。明治44年日本ハリストス正教会宣教50年記念祝賀会に於いて功労多として、感謝状を受ける。ニコライにより「真の正教徒」として数々の説教で紹介される程の篤信家であったイォアン畠山市之助は大正4年4月14日午後11時50分永眠する。
 パエル赤平操は士族の生活の為、酪農・養蚕業を手がけていく。やがて大館、花輪、扇田と移り牛乳屋を開業、明治28年大館病院御用牛乳屋(赤平牛乳店)となり地域に貢献した。
 赤平・畠山等と信を共にした者に中山の佐々木定吉、十二所の城忠貞、石井忠雄等がいる。城忠貞は明治31年~32年頃鹿角郡長となる。佐々木定吉は上川沿村村会議員として永く地域に貢献し、市之助の後、この地方の正教徒の中心になって後世に信仰を継承していく。


シャンデリアについて

正教会のシャンデリアには単に堂内を明るくするという便宜的な意味の他に「天空の星々」を象徴的に表しています。
聖書では、天体の光は至と高き所にいます「神の光栄」を顕していますので、シャンデリアは上から降ってくる「神の光」、すなわちハリストスの光をかたどっています。
曲田会堂のシャンデリアの由来
 北鹿ハリストス正教会の曲田生神女福音会堂は、明治25年建立の古い建物ですが、中にあるシャンデリアは、もともと愛媛県松山市に建てられた復活聖堂にあったものです。
 日露戦争の時に松山市にロシア兵士たちの捕虜が収容され、百人近くの人々がそこで永眠しました。彼等の安息を祈るため、日露戦争終了後に松山に聖堂が建立されました(明治41年)。聖堂建立のための費用はすべてモスクワの大富豪クセイア・フェオドロヴナ・コレスニコワ姉の献納によるものでした。
 ところが、大正12年の関東大震災でニコライ堂が崩れてしまい、やむをえず松山の復活聖堂をそっくり東京まで移すことになりました。
 ニコライ堂境内の中に移築された旧松山聖堂は、奇跡者ニコライ聖堂となり、老朽化のために解体されるまで使用されました(昭和37年)。
 旧松山聖堂にあったイコノスタスは大阪の庇護聖堂に、他のイコンはニコライ堂の中に、鐘は函館に(供出のため現存せず)、そしてシャンデリアは北鹿の生神女福音会堂に運ばれたのです。


こんな由来をもった当会堂のシャンデリアは、慈しみに溢れる光(神の光栄)として私達を包んでくれます。